父への憶い。2017/03/14

三月は別れの月、19歳の時に父を見送った時の悲しみは癒えることはない。
1歳の時に大病をして奇跡的に助かったそうだが、思い返しても可愛げのない子だったのに、いつも気にして話し相手になってくれた。

小さな炬燵で向き合って、幼稚な私の質問に本気になって考えながら応えてくれたのは父だけだったな。
前にも書いたけれど、勤務先の病院から決まった時刻に帰宅する父の往診鞄から、「こどもの科学」岩波文庫の「ファーブル昆虫記」シリーズなどなどを私に。
讀んだ後に父とよく話し合った。

毎日曜毎にお仲間と通っていた有馬のゴルフ場にもよく連れて行ってくれたものだ。
話すことが苦手な子どもだったから、ただ黙々とついて行ってゴルフ場では邪魔にならない場所で独り遊ぶのが楽しかった。

プラネタリウムがまだ珍しかった頃で父も興味が有ったのだろう、よく連れて行ってくれた。

姉と母は趣味が合ったし、兄は文系で余り興味が無かったのかな。
それに当時の男の子は中学受験で家庭教師が毎晩見えてて大変だったのだろう。

今のハイテクの世界を父に見せたかったです。
新し物好きだった父のことだから、きっと夢中になったと思う。

学友との別れのことを書こうと思っていたのにツイ父のことでイッパイになってしまった。

何も恩返しのようなことも出来ず、育ててもらっただけで別れて悔いが残ります。
子どもの頃と様変わりして脳天気な今の私を見たらビックリするかも。

添付写真は、全然関係ないですが随分前に描いた静物画、何だか好きでリビングの天井近くに今も飾ってます。

コメント

_ 晴香 ― 2017/03/14 20:18

新しもの好きはお父様似なんですね!!
10代のころにお父様を亡くしたんですね、そんな多感な時期に大きな悲しみにあい、きっと美海さんの考え方や人生観にとっても影響があったんじゃないですか。
お父様、きっとずーっと見守っていてくださっていますね。

私は去年大好きな祖父を亡くしました。上京するまで一緒に住んでいたしとってもかわいがってくれていたので最後は面倒見てあげたかったな。家族でも相性とかありますね!
私は小さいころから祖父とお茶を飲み、和菓子を食べたり祖父母の喧嘩の仲裁をしたり、というか口達者な祖母にいつも負けている祖父に加勢したり(笑)
祖父がいつも守ってくれていると感じます。

_ アスカ ― 2017/03/15 08:14

懐かしく思い出を呼び戻した今日の日記を、読みました。
大坂のプラネタリウムです。 戦前、S17年頃大坂・天王寺で父の叔父(歯科開業)宅に泊まって、プラネタリウム見学は、国民学校低学年の小生にはビックリした記憶があります。

_ さわ ― 2017/03/15 08:52

おはようございます

私も19歳の三月に父が亡くなりました
美海さんのお父様と同じで父とはいろいろな話をしました
父は大学は理系だったのですが文学青年だったとのことで
晩年はよく松本清張の本を読んでいました

_ 美海 ― 2017/03/15 19:34

晴香さん
ほんと 性格は父に似ていたみたい、それに大好きで尊敬もしてました。
影響いっぱい受けたみたいです^^

お祖父さまが大好きってイイナぁ〜☆
頼もしいおマゴさんでお祖父さまも嘸お喜びでいらしたでしょうね!
ご一緒に住んでいらしたって凄く羨ましいです(^^v)

家族でも相性が有りますよね。
家庭を持ってから、母の苦労も解りましたが〜

_ 美海 ― 2017/03/15 19:47

アスカさん
大阪のプラネタリウムは四ツ橋に1937(昭和12)年3月13日にオープンしたそうです。
その時から何度も父に連れて行って貰って、もうワクワクしながら夢中になりました。
小学生の時の初体験! 忘れられないですよね〜☆

_ 美海 ― 2017/03/15 20:02

さわさん こんばんは。
19歳の3月にお父様が〜
奇しくも私達、同じ体験でしたのね。
運命の絆のようなものを感じました。
一番多感な微妙な年頃でしたもの〜
父も理系でしたが漱石が大好きで(時代の違い)
世界文学全集なども愛読してたみたいです。
さわさんもお父様とよく話されたのですね!
早過ぎる別れでしたが残してくれたものは大きかったです。

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