静物(一回目)油彩 ― 2016/10/07
アトリエは静物の初回で、どんなモチーフかドキドキしながら教室に入った。
真っ白な石膏像がズラッと並んでいて息を呑む、
もう数名の方が見えてて描く場所の選定中、私もすぐに加わってアチコチから眺めて、描く石膏像を決め好みのアングルの場所をにイーゼルを据えた。
迷った末だけど、授業が始まって描き始めたらチョット後悔も。
どれも描きたくなる石膏像が勢揃いしていました。
4回仕上げだから、早く仕上げてもう1枚描きたいなと欲が出る。
夢中になって終った後は、お仲間と連れ立って何時ものお店で昼食、ゆっくりとお喋りを楽しみました。
つくづく来られる幸せを思い、感謝です。
帰宅途中の乗換駅の街でY電気のお店に寄って、新しい薄型のMacに合う「USB Super Drive」を購入した。
Macに詳しいお店の方にいろいろ詳しく教えていただいての決断です。
私の知識不足で困っている他のことも解決方法のヒントをいろいろ頂いて希望が湧きました。
暗くなって帰宅、疲れたけれど満ち足りた気分で 今日はもう休みます。
添付写真は、次回まで眺めて構想を煮詰めたいと。
真っ白な石膏像がズラッと並んでいて息を呑む、
もう数名の方が見えてて描く場所の選定中、私もすぐに加わってアチコチから眺めて、描く石膏像を決め好みのアングルの場所をにイーゼルを据えた。
迷った末だけど、授業が始まって描き始めたらチョット後悔も。
どれも描きたくなる石膏像が勢揃いしていました。
4回仕上げだから、早く仕上げてもう1枚描きたいなと欲が出る。
夢中になって終った後は、お仲間と連れ立って何時ものお店で昼食、ゆっくりとお喋りを楽しみました。
つくづく来られる幸せを思い、感謝です。
帰宅途中の乗換駅の街でY電気のお店に寄って、新しい薄型のMacに合う「USB Super Drive」を購入した。
Macに詳しいお店の方にいろいろ詳しく教えていただいての決断です。
私の知識不足で困っている他のことも解決方法のヒントをいろいろ頂いて希望が湧きました。
暗くなって帰宅、疲れたけれど満ち足りた気分で 今日はもう休みます。
添付写真は、次回まで眺めて構想を煮詰めたいと。
朝ドラを観て ― 2016/10/08
秋から新しく始った連ドラは神戸が舞台で懐かしい。
主人公のモデルになった方は私が通った女学校の先輩らしい。
今は大きな総合大学になっているが、私が通っていた頃は5年制の女学校で一学年90人ほどだった。
人数が少ないから全校生徒が顔馴染み、しかも姉妹で通ってる子が多かった。
戦争が激しくなって卒業後、京都の女専に進学して寮に入ったあと、家も琵琶湖のほとりに疎開したので神戸との縁は切れる。
でも戦争が終わってから、風の便りで女学校の先輩数名の方々がファッションの会社を設立されたと伺って、時代の推移を感じた覚えが有る。
個性を尊重するユニークな教育方針だったなと今振り返って感謝することは多い。
そのうちに皇室御用達も話も伝え聞いて嬉しかった。
ずっと先輩でお目にかかる機会も勿論無かったのだけど。
昨日、たまたま届いた卒業生のための会誌をめくるとすっかり立派になった校舎、充実した学部に、設立1920年からの歴史を思う。
私は21回生だものと感無量だ。
最近は、前回の「暮しの手帖」など、来し方の古い思い出が蘇ってくることが多いです。
添付写真は今朝、通りすがりに公園の樹々に秋を感じて。
その内に紅葉、銀杏並木の黄葉が楽しみです。
主人公のモデルになった方は私が通った女学校の先輩らしい。
今は大きな総合大学になっているが、私が通っていた頃は5年制の女学校で一学年90人ほどだった。
人数が少ないから全校生徒が顔馴染み、しかも姉妹で通ってる子が多かった。
戦争が激しくなって卒業後、京都の女専に進学して寮に入ったあと、家も琵琶湖のほとりに疎開したので神戸との縁は切れる。
でも戦争が終わってから、風の便りで女学校の先輩数名の方々がファッションの会社を設立されたと伺って、時代の推移を感じた覚えが有る。
個性を尊重するユニークな教育方針だったなと今振り返って感謝することは多い。
そのうちに皇室御用達も話も伝え聞いて嬉しかった。
ずっと先輩でお目にかかる機会も勿論無かったのだけど。
昨日、たまたま届いた卒業生のための会誌をめくるとすっかり立派になった校舎、充実した学部に、設立1920年からの歴史を思う。
私は21回生だものと感無量だ。
最近は、前回の「暮しの手帖」など、来し方の古い思い出が蘇ってくることが多いです。
添付写真は今朝、通りすがりに公園の樹々に秋を感じて。
その内に紅葉、銀杏並木の黄葉が楽しみです。
連休に ― 2016/10/09
今月は早めの朝市で、出掛けようとしたら土砂降りだ。
レインコート、長靴、大きな傘で重装備して出掛けた。
カートにイッパイ買い込んで、ついでに近くの家人のところへ寄ると映画のイイ所だと云うので一緒に観る。
ラストシーンに近く、豪華客船が出航する別れの場面で無数の紙テープが・・・
國もストーリーも時代も判らなかったが、子どもの頃の記憶が蘇って懐かしかった。
神戸の埠頭に親が友人を見送りに、時々ついて行って、投げてもらったテープを握りしめて手を振った。
テープの輪がドンドン少なくなり、遂に切れて色とりどりのテープが空を舞う頃には手を振っていた知人の顔も遠くなっている。
神戸は輸入港だったから人もモノも国際色が豊かだったな。
大昔のことはよく覚えているのに、今のことはすぐ忘れる。
海馬が弱ってると思いながらも、遺伝かなとも。
父も鞄や傘などをよく通勤電車の中に忘れて来て母の顰蹙を買っていた。
私も小学生の頃から忘れ物はしょっちゅうだった。
父はチョットした発明や、いつも考え事で頭がイッパイだったみたい。
私も空想や考え事で現実が疎かになっていて注意散漫だった。
というようなことを若い彼女に話して笑う。
ま 今は歳のせいだろう。
ちょっと寄るつもりが長居して、外に出ると大雨が嘘のようにおさまっていた。
明日は少し遠くの家人が訪ねてくれる。
ボーットしているうちに今日も一日が終りに、アッというまに今年も残り少なくなりました。
充実感の持てるように、一日、一日を大事に過ごしたいです。
添付写真は庭に咲いていた花に惹かれて、例によって名前不詳です。
レインコート、長靴、大きな傘で重装備して出掛けた。
カートにイッパイ買い込んで、ついでに近くの家人のところへ寄ると映画のイイ所だと云うので一緒に観る。
ラストシーンに近く、豪華客船が出航する別れの場面で無数の紙テープが・・・
國もストーリーも時代も判らなかったが、子どもの頃の記憶が蘇って懐かしかった。
神戸の埠頭に親が友人を見送りに、時々ついて行って、投げてもらったテープを握りしめて手を振った。
テープの輪がドンドン少なくなり、遂に切れて色とりどりのテープが空を舞う頃には手を振っていた知人の顔も遠くなっている。
神戸は輸入港だったから人もモノも国際色が豊かだったな。
大昔のことはよく覚えているのに、今のことはすぐ忘れる。
海馬が弱ってると思いながらも、遺伝かなとも。
父も鞄や傘などをよく通勤電車の中に忘れて来て母の顰蹙を買っていた。
私も小学生の頃から忘れ物はしょっちゅうだった。
父はチョットした発明や、いつも考え事で頭がイッパイだったみたい。
私も空想や考え事で現実が疎かになっていて注意散漫だった。
というようなことを若い彼女に話して笑う。
ま 今は歳のせいだろう。
ちょっと寄るつもりが長居して、外に出ると大雨が嘘のようにおさまっていた。
明日は少し遠くの家人が訪ねてくれる。
ボーットしているうちに今日も一日が終りに、アッというまに今年も残り少なくなりました。
充実感の持てるように、一日、一日を大事に過ごしたいです。
添付写真は庭に咲いていた花に惹かれて、例によって名前不詳です。
感謝の連休 ― 2016/10/10
昭和初期の思い出 ― 2016/10/11
NHKの朝ドラを観ながら昭和10年代の神戸の風景が蘇る。
私が物心ついた時には阪神間は住宅地になっていたが、以前は胡瓜や苺畑、田圃が多く、それに鰯漁の盛んな鄙びた地だったそうだ。
その名残の肥だめのついた畑も残っていたし、早朝に浜に行くと歳取られた漁師さん達が地引き網を引いてる姿を見かけた。
大阪、神戸に近いので財閥の方達が計画的に開発されたと聞く。
浜から六甲山の麓まで歩いて小1時間くらいの距離だったが、その間に交通機関は発達していて当時の名称では 省線電車、阪急、阪神、それに新国道には路面電車、旧国道にはバス。
円タクと呼ばれていた大型タクシー、人力車も珍しくなかった。
サラリーマン向けの住宅がどんどん造られて、借家が普通だったから新築の家を父母が見に行き、気に入った家に引っ越したものだ。
家賃が50円ぐらいだった時代です。
ちなみに当時のお手伝いさんの給料が10円くらい、出前のおうどんが30銭〜40銭、ジャムパンが5銭でした。
父は本家のことも有り仮の住まいの気持ちも有ったらしいが、土地を開発された方や財閥の方々の邸宅は桁違いに立派で広かった。
小学生の頃、近所の友達の家に遊びに行くと門番のおじいさんが怖い顔で広い敷地のなかに点々と建つ離れの鍵を開けてくれたものだ。
別の友達のとこではモダンな洋式の子供部屋、お台所には電熱の調理器、初めて見てビックリ。
貧富の差の激しい時代だったが、子どもは気にせず皆と仲が良かったなと懐かしい。
何だか話がそれたが、あのころの風景を自分なりに書いて置きたいとまた思う。
もう確かめる姉、兄も居なくなったから、記憶違いも有るかも知れないが。
私が物心ついた時には阪神間は住宅地になっていたが、以前は胡瓜や苺畑、田圃が多く、それに鰯漁の盛んな鄙びた地だったそうだ。
その名残の肥だめのついた畑も残っていたし、早朝に浜に行くと歳取られた漁師さん達が地引き網を引いてる姿を見かけた。
大阪、神戸に近いので財閥の方達が計画的に開発されたと聞く。
浜から六甲山の麓まで歩いて小1時間くらいの距離だったが、その間に交通機関は発達していて当時の名称では 省線電車、阪急、阪神、それに新国道には路面電車、旧国道にはバス。
円タクと呼ばれていた大型タクシー、人力車も珍しくなかった。
サラリーマン向けの住宅がどんどん造られて、借家が普通だったから新築の家を父母が見に行き、気に入った家に引っ越したものだ。
家賃が50円ぐらいだった時代です。
ちなみに当時のお手伝いさんの給料が10円くらい、出前のおうどんが30銭〜40銭、ジャムパンが5銭でした。
父は本家のことも有り仮の住まいの気持ちも有ったらしいが、土地を開発された方や財閥の方々の邸宅は桁違いに立派で広かった。
小学生の頃、近所の友達の家に遊びに行くと門番のおじいさんが怖い顔で広い敷地のなかに点々と建つ離れの鍵を開けてくれたものだ。
別の友達のとこではモダンな洋式の子供部屋、お台所には電熱の調理器、初めて見てビックリ。
貧富の差の激しい時代だったが、子どもは気にせず皆と仲が良かったなと懐かしい。
何だか話がそれたが、あのころの風景を自分なりに書いて置きたいとまた思う。
もう確かめる姉、兄も居なくなったから、記憶違いも有るかも知れないが。
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