薄暗い晩秋の一日2014/11/26

ハナミズキの葉が落ちて
一昨日、展覧会を観て横浜から帰宅したら近くの並木のハナミズキの葉が落ち尽くして、あとに無数の小さな真っ赤な実が秋空のブルーに映えていた。

なのに昨日も今日も小雨模様の曇天だ。
こういう日は苦手だな。
案外、幼児体験って摺り込まれていて一生それに左右されてるのかもと考える時が有る。

子どもの頃の阪神間は、緑の山と穏やかな青い海、淡いベージュ色の砂浜、道路も舗装されてなくて白っぽかった。
京都の学校に入学した時は歴史の有るたたずまいに魅かれたが、しっとりとした暗さも感じた。

30歳すぎに夫の転勤で東京にきて、山と海が見えないのが淋しかった。 
日も早く暮れる。

上京して一年後に横浜の高台に移り住む。
横浜と神戸はともに港町で中華街や元町の名前も懐かしかったし、遠くにだが海が見えるのも嬉しかった。

夫々の土地の良さは十分満喫させてもらって、どの地にも懐かしい思い出がイッパイだ。
それでも幼児体験は原点のように心の奥に残ってて、比較している自分がいる。
あくまでそれはもう現実には見られない古い絵のようなものなのだが。

さあ 久し振りに溜っている本を讀もう。
昨夜はゆっくりと友人と電話で四方山話、お互い本好きだからイッパイ情報と刺激と元気を貰った。 感謝。

「「自分」の壁」 養老孟司 新潮新書 2014.7.10発行
先月買ったのに、じっくりと讀む暇がなかったのだ。
新しい気持ちで最初から讀み始める。

コメント

_ 青嵐 ― 2014/11/26 20:13

二日間降り続いた雨で辺りはけぶったような空気感。
こんな日も悪くないな~と思えるのも歳のせいかしら?
何やら気持ちが落ち着くのです。

さて幼児体験。
育った環境って一生涯引きずってしまいます。

美海さんは緑の山と穏やかな青い海、淡いベージュ色の砂浜。
好い所で子ども時代を過ごされましたね。

私は四方八方360度山に囲まれたすり鉢底のような集落育ち。
家の前は川、夜は漆黒の闇、瀬音が子守唄のように聞こえました。
今でも故郷に帰ると村一番の山が穏やかな姿で迎えてくれます。
誰にも忘れられない原風景、ありますよね。

わが故郷は永遠です。

_ 美海 ― 2014/11/26 22:30

青嵐 さん
う〜ん たしかにこんな日は落ち着くのかも。
谷崎潤一郎の随筆、「陰翳礼讃」を思い浮かべました。

青嵐さんの原風景、素晴らしいと思います!
皆が自分だけの大切なモノを抱いているからイイのでしょうね。

_ chiara ― 2014/11/26 23:06

私の生家は、今でいう関内駅の前。
でも、4歳になる前に焼け出され、米軍に接収されて帰ること適わず、
ほんの僅かな記憶と祖父母や母の話で私の原風景は出来上がっています。
そこから伊勢佐木町、野毛、馬車道、桟橋など、昔の面影がいか程残っているものやら。
それでも、行けば堪らなく懐かしさを感じる不思議。

_ びわ子 ― 2014/11/27 07:41

美海さん、青嵐さん。おおよそかけ離れた環境に生まれ育っても、故郷を大切に思う気持ちに変わりはありませんね。
私は山陰の鄙びた町で18歳まで暮らしました。「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるような、どんよりとした冬の日々でした。
でも、それが我慢強い心を養ってくれたのかなあ、と今は有り難く思っています。

_ 美海 ― 2014/11/27 09:11

chiaraさん
関内!
私が横浜に移り住んだのは昭和36年、まだ根岸線がまだ無かった頃からあの界隈はよく行きました。伊勢佐木町、野毛、馬車道、桟橋・・・
chiaraさんの原風景とは違うと思うけど。
いまは月に3回、アトリエに行く為に関内駅で降ります。 今はビルとお店ばかり、でも大好き!
横浜は第二の故郷です。

_ 美海 ― 2014/11/27 09:29

びわ子さん
私が京都で学生寮の二人部屋の相棒が山陰の出身でした。
親友でしたが能天気な私と違って無口で思慮深く粘り強かったです。
若くして亡くなったお兄さんの替わりに家を継ぎ両親の面倒を見ながら立派な先生になりました。
やはり幼児期の環境の影響って凄いですね。
いい意味で。

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