お見合い記念日2012/07/01

大きなメロン
今日、7月1日は夫と初めて会った日。
そう お見合いした日だ。
父が亡くなって兄が結婚して残った私を心配して父の友人や母のお友達が何人も紹介して下さった。
あの頃はお見合い結婚の習慣がまだまだ残っていた。
おくてだったから男の子はみな友達って感じしか持てなかったな。
お見合いも随分したけれど矢張りその気になれなかったのが、お話を戴いて兄と二人で先方のお宅にお邪魔したのが良かったみたい。
家の雰囲気が良くてお義母さまが素敵だった。
この日がお義母さまの誕生日だったことは後で聞いた。

この日のことや後の経緯はどこかで書いた気がする。
初めて結婚の事を真剣に考えて新しい人生を始めたいと思った。
そして54年間、私には過ぎた幸せを貰った。
夫の事は照れくさいから書かないが、義母に可愛がって貰って精神的な苦労はせずにこられた。
だから世間知らずなのだろう。

日曜日で家人のとこに寄ったら北海道から送って来たメロンを。
美味しかった!
お土産にもらったのを早速スケッチブックに描いてみたが難しかい。 気力切れと時間切れで筆をおく。

夏空に2012/07/02

帰りは夏空に
天気予報では曇りだったのに小雨が降っている。
でも思い切って絵の教室に出掛けた。 肌寒い。
今日はお一人がお休みで生徒は二人だけだった。
黙々として貝殻の続きを描く。
水彩色鉛筆と水彩絵の具を併用して彩色を始めたが遅々として進まない。
次のモチーフの心当たりも無いから今月はじっくり腰を据えてこれに取り組もう。
苦手なモノは勉強になる。 多分ここでお世話になる最後の作品だろうと思うと複雑な気分だ。

例によって珈琲をご馳走になりながらサンドイッチの昼食。
先生のお話を色々伺っていたら前に習ってられた男性がお菓子を持って訪ねてこられた。
易学に詳しい方で蘊蓄の一端を聞いているうちに1時半になり慌てて絵に戻ったがもう後片付けするのみ。
珍しいお話が伺えたから良かったとは思う。

外に出ると朝の曇天が嘘のように青空が広がって日射しが暑い。
書店に寄ったが「話題の本」の棚にも讀みたい本が見付からず
「岩波ブックレット創刊30年 15人がすすめるブックレット」
  (在庫目録つき)
だけを貰って帰った。
ここ暫く本を読んでいないな。

「話題の本」のなかにパンセの文字が有ったのを思い出して、
今讀まれているのかしらとパソコン机の脇の本棚を見ると
「パンセ」上・下 パスカル 新潮文庫
が眼に入って思わず数ページを讀んでしまった。
すっかり忘れている。 全部讀んだかも怪しい。
今の人はこれをどう受け取っているのだろう。
今日は根っからのクリスチャンだった母の誕生日だ。

電話で元気を2012/07/03

見上げると赤い実が
出掛けた翌日は疲れがでて、ぼ〜っとしている。
と先日二年ぶりにパーティーで会った友からまた電話を貰った。
嬉しかった。
彼女も同時期に病気になったから思いは同じだ。
話しているうちに最初に出会った20年前の小さな教室での想い出に。 
先生もお若かったな。
その頃の何人かは亡くなられたが、今も5〜6人の方と一緒に絵を続けている。

我が家が引っ越す前に庭で海を眺めながら全員でバーベキューをしたことも思い出してくれて
「あれ 最高だったわよ」
彼女の記憶力は抜群だ。
お互い元気だったな と時の流れを思いながらも、またアトリエで一緒に絵を描きたいと願う。
元気な弾んだお声だったからその日も近いだろう。
私も頑張りたい。

パーティにはご主人もいらして
「今度また面白い本があったらお知らせしますよ」 と。
いつも宇宙などに関する新しい本を教えて戴いているのだ。

友達って有り難いなと益々思い、感謝するようになった。

添付写真は昨日公園の近くの歩道で赤い実がイッパイ落ちていて見上げた大きな樹。 赤い実が鈴生りだった。
ネットで調べたがそれらしいのは見当たらない。
名前を記した小さな木札がついていたら楽しいと思う。
(公園では名札がついていることが多くて勉強になる)

追憶2012/07/04

最近は純白の紫陽花が
「徹子の部屋」は地井武男さんの追悼番組だった。
二年以上前になるだろうか、友達と寄った小さなレストランで地井さんが訪ねて来られた時の話をご主人から伺ってビデオまで見せて戴いたことを思い出す。
珈琲の美味しかったそのレストランも今はもう無い。

今日7月4日は兄の命日の筈だ。
昔の事はよく覚えているのに歳とともに悲しい事は故意に記憶から消そうとするみたい。
遠くに住んでいるので訪ねる機会も無いが今度義姉に電話したときにちゃんと書き留めて置かなくてはと思う。

大正11年生まれの姉と大正13年生まれの兄と昭和2年生まれの私の三人きょうだいだった。
早生まれの姉とは歳が離れていたせいか一緒に遊んだ記憶はないが兄には時々相撲の相手させられたな。
年頃になっても真剣に話し合ったことはなかった。
学徒出陣、学徒動員、父の死、経済的不安、生きる意味・・・
抱え込んでいた筈なのに。
兄の親友から後で聞いた話だが、二人で自殺しようということになって、暫く考えた後で
「妹を一人で残す訳にいかないからな」
と思い直したそうだ。 ホントかな。

お互い結婚してからは義姉とは色んな話をしても兄の本音は聞いた事が無い。
父が早く亡くなったあと母や伯母の面倒をみる一方で海外旅行など独りで好きな事を楽しんでいたらしいから家族は悔いのない人生だっただろうと言っている。
それに慰められるが、沁みじみと昔話がしたかったなあとそれだけが心残りだ。

兄が逝って、夫が亡くなり翌年に姉が亡くなって昔話を教えてくれる人は誰も居なくなって淋しい。
最近テレビや本で親しんだ方々の訃報を聞き時の移ろいが身に沁みる。
こんな湿っぽい話するつもりはなかったのに。
今夜は面白いテレビでも見よう。

風水害の思い出2012/07/05

六甲山の岩石
今日7月5日は昭和13年の阪神風水害の有った日でその時の思い出は2009年のブログに書いている。
その頃の六甲山の絵はがきは裏六甲の写真で(日本語は右から讀む)海に面したほうはゴルフ場や別荘などで開発が進んでいた。
乱開発のせいで大規模な土砂崩れが起きたと当時言われたものだが、写真に写っているような大きな岩石、それも特産の花崗岩の固い塊と土砂が麓の住宅街を襲った。

我が家は海の近くの川沿いの少し高くなっている地だったので何の被害も無かったが知人や友達のなかには天井近くまで土砂で埋まった家も多かった。
小学校の雨天体操場は避難して来た方々で埋まり、母は炊き出しを手伝っていた。
それでも授業を普通に受けていたのが不思議な気がする。
その後、学校の前の空き地には仮設住宅が建てられ一年近く住んでる人が見られたが大方の家は割合早く元に戻ったようだ。

姉の通っていた女学校は山に近かったから恐ろしかったようだ。
この年の夏休みは後片付けのため毎日登校していた。
2年後に私がその女学校に入学した時は校舎の裏庭がゆるいスロープの山のようになって樹々や花の咲く植え込みで散歩道も作られて休み時間の憩いの場になっていた。
風水害の時の土砂がもたらしたものだ。
親友と並んで坐っていた時の芝の感触が蘇る。
その母校も数十年前に移転してそちらへはまだ一度も行ったことが無い。

長寿の会などで必ず歌う「青い山脈」は六甲山を観て創られたという事を近年になって何かで知って嬉しかった。