愚痴2011/12/01

銀杏の絨毯
先日、医院に何時ものお薬を貰いに行った折に
「退院して半年も経つのに元気がでないんです」
と訴えて念のため血液検査をして戴いた。
そして今日、その結果を伺ったら全然問題なしだった。
「やはり長期入院して大変だったから暫くかかりますよ」
それプラス加齢だろうなと心の中で思った。
ホッとしながらも意気地無い自分が情けない。

色んな苦労をしてきたつもりでもまだまだ甘い。
恵まれた人生だったと思う。
欲望は少ないほうだからささやかな今の生活で満足している。
本が読めて、絵が描けて、パソコンして、友人とお喋り出来れば退屈することはなかった。

初めて私にしては大病して戸惑っているのだろう。
神経質になってる。
う〜ん 哲学書を何十年振りに讀み直そうか。
それとも日々の楽しさだけを捜して浸ろうか。
などと理屈が先走るのが私の悪い癖だ。

何だか恥ずかしいことを書いてしまったがチョットすっきりした。

義姉の命日2011/12/02

紅葉真っ盛り
今日は義姉の命日で久しぶりに神棚の扉を開けてお位牌を前に出しお神酒、洗米、水を供える。
榊を買いに出掛けたら真冬並みの寒さだった。
夫の写真は身近な場所に置いてるけれどご先祖様の神棚は脚立を持って来なければ届かないからつい疎かになっている。
悪い嫁だなと義母に申し訳ないと思いながらもクリスチャンの母と宗教に関心のなかった父に育てられた私は未だに仕来りに馴染めないでいるのだ。

義姉が亡くなってもう50年が過ぎる。
子どもの頃から心臓の持病を抱えていて結婚したお相手のお医者さんが驚いて離縁になったと義母から聞いた。
私たちが結婚して2年ばかり離れで暮らしていらしたから時には一緒に食事して親しくなったが賢くて7歳年下の世間知らずの私を温かい眼で見てくれた。
義母が東京へ、我々も数年後には東京に転勤になり遠くなってから突然の訃報が入って老齢の義母と幼児を抱えた私はお別れには行けなかった。
まだ若かったのに、元気にお勤めもしてたのに、悲しかった。

義母は5人の子どもに恵まれながら次女は赤ちゃんの時に麻疹で、末っ子の次男は大学卒業後すぐに結核で亡くしている。
老齢になってからの三女との別れは嘸辛かったことだろう。
昔はこういう悲しいことが多かった。

義姉のお位牌を見つめながら彼女の子どもの頃のことを語ってくれる人はもう誰もいない。
私が知ってからの彼女のことを話す相手も機会も無いだろう。

「”真珠湾”から70年」を観て2011/12/04

昭和初期の学芸会の写真
NHKスペシャル「”真珠湾”から70年」を観た。
第1回で主に日中戦争(当時は支那事変と言ってたと思うが)のことを取り上げていた。
80歳90歳代の方々の体験談に当時の風景の中にタイムスリップした感じになる。

戦争の当初は小学校の広い校庭に町民が集まり朝礼台の上に直立不動した召集兵は俄の丸刈りで額だけが青白かった。
町長の激励の挨拶、何回も繰り返される万歳、子ども達は日の丸の小旗を打ち振って「勝ってくるぞと勇ましく♫」の軍歌を繰り返しながら駅まで行進した。
家族には「おめでとうございます」の挨拶が繰り返されていたが若い奥さんの俯いた表情が子ども心にも気になった。
出征兵士の家にはその旨を示す表札が掲げられていた。
戦争が長引くに連れて町に若い男性の姿はめっきり少なくなり、出征兵士を送る行事も軍事機密に関するとかでひっそりと旅立つ方も多くなった記憶が有る。

日本兵と現地の子ども達とが仲良く交流している絵葉書なども有ったが現実の厳しさは時々帰還した親戚から聞かされていた。
今回の放送の生々しい話を伺ってその苦しかった体験と哀しみが痛い程伝わって来た。
封印して来られたであろう経験を語られるのは嘸辛かったと思う。
あの時を生きて来たものにしか解らないことだ。

テレビを観て2011/12/05

NHKの「坂の上の雲 第3部」が始まった。
一昨年には3年連続なんてムリかもと書いたら案の定去年は入院中でまともにテレビ観られる状況ではなかった。
でも何とか生きている。
これまでの再放送も観たから久々にゆっくりと浸り込む。
原作は発行された時に買って夢中になって読んだがもう殆ど忘れているから新鮮だ。

その後で「NHKスペシャル ”真珠湾”から70年」を観た。
ドラマと実録との違いは有るがこの二つの戦争の落差を沁みじみ考えさせられた。
小さな國が世界の大国に認めてもらおうと必死になって戦った日露戦争は莫大な戦死者を出しながらも勝利に終った。
世界で生き残る為には仕方のない犠牲だったのかもしれないが本人も家族も辛かっただろう。
その頃は國への思いと死生観が違っていたのだろうか。

太平洋戦争のニューギニアにおける兵士の飢えの実態を体験された方々の生々しい証言をテレビで聞いて言いようの無い気持ちになる。
前に「それでも日本人は戦争を選んだ」を読んで戦争の起こる多々の原因があることを知ったがその結果辛い体験をした方々は今も癒し難い心の傷を抱えておられる。

私は無論、日中戦争以前のことは知らないし、祖父母から明治の世情を聞く機会も無かったから小説で想像するだけだ。
太平洋戦争は十代後半にその渦中に居たから今想うことはいろいろある。
どうして世界中国境を越えて仲良く出来ないのだろう。兵器が無くならないのだろう。 譲り合えないのだろう。
戦争の悲惨さを想うと甘いと知りながらつい理想論に走ってしまうのだ。

図書館にて2011/12/07

厳しい冬到来
買い物に行ったついでに図書館に寄った。
佐藤愛子さんの新刊「これでおしまい 皆さんさようなら」が目当てだったのだが既に22人待ちで結構皆さんの早い反応に感心しながら予約する。
システム機器入れ替えとかで1週間程貸し出し停止になると聞いて何か借りて置こうと物色した。
そうそう 吉本隆明著で興味惹かれたのがあったっけ。
題名を忘れているから係の方に検索して頂いたらそれらしいのは既に貸し出されていたので代わりに
「思想のアンソロジー」筑摩書房
を借りてから
「これが佐藤愛子だ」と
「ああ玉杯に花うけて」佐藤紅緑
の文庫本2冊も追加した。

例によってエッセーは一気読みしてしまうが60歳過ぎに書かれたものは矢張り若いなと思う。自分のその歳の頃を思い出して懐かしかった。
佐藤紅緑は彼女の父上だ。
少年倶楽部に連載されてあまりにも有名だが私が兄のを讀み始めた頃の記憶には無い。 
私は江戸川乱歩の「怪人二十面相」に夢中になっていた。
興味が有ったのに讀み始めると時代のギャップに少々しんどい感じだ。

「思想のアンソロジー」は私には難しかった。
抽出されると引用された元の全体を読んでなかったり忘れたりしているから戸惑ってしまう。
それでも心に響く言葉が有りそうでゆっくり読んでみようと思う。

本を選ぶのはつくづく難しいと痛感した。

12月8日2011/12/08

冬木立
12月8日が巡って来た。
真珠湾攻撃、日米開戦のあの日から70年が経つ。
あの日のことは一昨年のブログに書いた以上のことは覚えていない。
ただラジオを聞いては高揚しながらも不安も渦巻いていた。
親の庇護の元にいてその後も戦災に直接遇わなかった私にあの戦争の悲惨さを語る資格は無いかも知れない。

去年の今日は病院のベッドでブログどころではなかった。
一昨年のを開いて懐かしかったので大部分を付記する。


 ===2009.12.8のブログより===
 太平洋戦争始まる。
女学校2年生になっていた私は朝2階から降りた途端にお茶の間のラジオから上ずったアナウンサーの声が飛び込んだ。
米国と戦闘状態に入った、真珠湾を攻撃して何隻もの軍艦を撃沈した事を正確な言葉は忘れたが何度も繰り返し、その間に軍歌が流れた。
父は複雑な表情で「まさかなあ この間ゴルフの仲間と今年中に日米開戦有るかを賭けて、無いと思ったから有るほうにしたのだが・・・」と不謹慎なことを言った。 先の事を考えての不安を隠していたのではないか。
一番亢奮していたのは中学5年生の兄だった。ラジオの新しいニュースを聞き逃すまいと二階の自室との間を何度も往復していた。 3年後学徒出陣することになるとは予想してなかっただろう。

華々しい戦果と勇ましい軍歌に何となく高揚した気分で登校した。 教室ではグループごとに集まってその話しで持ち切りだった。  私は親友と二人、校舎の裏庭の芝生に座って柔らかな日射しを浴びながら今朝聞いたラジオの内容を思い返していた。 ずっーっと黙っていた彼女がポツンと「朝から軍歌ばっかり 変なの」と呟いた。 いつもにこにこして穏やかな彼女の言葉に驚いた。
何も解らず上ずっていた私の気分もその一言で現実に引き戻され、これからどうなって行くのだろうと微かな不安が生まれた。
彼女の父親は祖父を継いで商社マンだったが学究肌の方で世界の事情にも通じていらしたようだ。 そういう雰囲気が彼女の独り言にでたのだろう。
女学校2年生に深い事が解る訳もなく悲惨な戦争の暗闇の始まった昭和16年12月8日だった。
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70年経った今も今日は忘れられない特別な日だ。

手紙雑感2011/12/09

モミジバフウの紅葉と実
伸ばし伸ばしにしていた手紙を今日やっと書いた。
便箋にしたためるのは年に1〜2回くらいしかない。
筆はムリでもせめて万年筆でと思ったが長いこと使ってないからスムーズにインクが出て来なくて言い訳のように一番上等のボールペンを使った。

20年あまりワープロとパソコン入力で楽をして来た結果、生来の悪筆が更に酷くなっていて恥ずかしい。
それにもまして漢字の忘れようは甚だしく辞書を引いてはルーペで確かめる始末だ。(電子辞書を使うのを忘れていた)
旧漢字が必要になって夫が中学生の時使っていた大きな漢字字典まで持ち出した。
たった2枚の便箋を投函出来るようにするまでに2時間近くかかって何だか情けなくなる。

最近は物忘れ防止に雑記帳にその日の予定などをメモしているが他人には(時には自分でも)讀めない字だ。
時間を惜しまないでハッキリ楷書で書く習慣をつけよう。
難しい漢字は讀めるほうだと少し自信があるがこうまで書けなくなっているとは。

小さな温もり2011/12/10

楓
昨日の午後から晴れた青空が今朝も続いていて久しぶりに厚手のセーターなどの洗濯物を干してスッキリする。
こんな日は歩いて置かなくてはとカメラだけポケットに入れて出掛けた。
この辺りもやっと楓が真っ赤になってきているので何時かスケッチした小さな渓谷のほとりの何本かの楓を訪ねることに。
脇道にそれた奥の坂道を少し登った所なのだが粘土質の土が湿っていて滑りそうで怖い。
以前は気にもしていなかったのに・・・
それでも向こうに見える緋色の塊に惹かれて用心しながら登った。
傍らを苔むした石の間を水が淀みながらも流れている。
足場が悪くて良い写真は撮れなかったが気分だけは最高だった。

登りよりも降りるほうが難しい。
少しの草を頼りに一歩ずつ足場を選びながら進んだが最後の所で止まってしまった。
また遣ってしまった。
用心深い性格なのに後のことを考えずに突き進んで後悔することも多い。
暫し考え込んでいたらこれから集合するらしい野球のユニホームを着た少年達が三々五々通りかかった。
私が通り過ぎるのを待っている。
思わず
「ちょっと手を握ってくれる?」
と声をかけると ひとりの幼顔の残る少年が手を差し伸べてくれた。
無事に降りれて
「サンキュ〜 有り難う」 とお礼を言った。
黙って皆と一緒にさっと駆けて行ってしまったが手のほのかな温もりが嬉しかった。

絵を描くこと2011/12/12

小さな公園にて
絵の教室に行くのを止めて一年以上になる。
2時間近くかかる所だからまだ当分は無理だろう。
アトリエで先生が用意して下さったモチーフやモデルさんに夢中になって筆を走らせた日々が遠い昔のことに思えて懐かしい。

絵を描くのに上手下手は関係ない、感じたままを素直に描けばイイと思って来た。
それなら独りで何時でも気の向くままに没頭出来るはず。
海のそばで富士山を眺めていた頃は閑を見つけてはスケッチを楽しんでいた。
技術は未熟だが今見てもその時にしか描けない心情が伝わってくる。

今は時間を持て余しているのに心が躍らない。
一歩踏み出せない自分が歯がゆくて今日は簡単な水彩絵の具と水筆をバッグに入れ小さな無人の児童公園のベンチに腰掛けて30分ほどスケッチをした。
初心に還った気持ちだった。細々でも続けられれば楽しくなってくるだろう。 そうなりたいな。
贅沢な悩みだなと苦笑する。

クリスマスの月2011/12/13

ミニクリスマス飾り
ホームセンターに電池を買いに行ったら
 ”き〜よし このよる〜”
が流れていた。
一時期の様な派手さはないがクリスマスグッズも並んでいる。
マゴが成人してからはクリスマスプレゼントを選んだりツリーを飾る楽しみからも遠ざかったな。

幼い時に母に連れられて行った教会の厳粛な礼拝は子ども心に好きだった。
日曜学校では皆で降誕の場を演じ天使に扮したのを思い出す。
台詞は忘れたけれど短い一言だけだった。
長老がサンタさんに扮して文房具などのプレゼントを配って下さった。
戦争でそろそろ食糧事情が悪くなった頃には最後に手作りの薄いお汁粉を振る舞われた。 クリスマスケーキなんて無かった時代だ。

大きくなるにつれて教会から遠ざかったけれど「きょし このよる」の聖歌を耳にするとあの質素で厳粛だったクリスマスの光景が蘇る。

昨日、思い立って飾り棚の上に小さなクリスマスの飾りをした。
数年前にマゴ娘からプレゼントされたサンタさんと天使にカワイイものを総動員して子どもに還ったようだ。