「防災の日」に2011/09/01

道端で見かけた花
1923年9月1日11時58分に関東大震災は起きた。
もう88年になるのかな。
私は勿論生まれていない。
5歳年上だった夫はヨチヨチ歩きをしていた時にあの地震で転んだという話を義母から聞き我が家の一つ話になっていたが京都まで揺れたことに今更のように驚く。

転勤で東京近郊に移ってからは大地震の60年周期説を信じて、その時期には大きな宝箱の様なケースの中に非常食の缶詰や水、救急医療箱、防災頭巾や衣料を詰めて庭の納屋の中に保管していた。
毎年几帳面に入れ替えていたものだ。
何事も無く年月が経って行ったのは有り難いことだが10年以上立った頃には危機感が失せ、入れ替えも間遠になって行き、引っ越しを機会に全部処分してしまった。

今、今度こそ地震への備えを真剣に考える時なのだろうが自分一人のことならという杜撰な気持ちが何処かに有って水と幾ばくかの食糧が有ればいいか なんて無精になっている。
ヘルメット位は買っておこうかな。
家具の転倒防止対策だけは3.11を機にしっかりやって貰って感謝している。

夫の母の命日2011/09/02

義母の肖像
夫の母の命日に沁みじみと想い出が湧いてくる。
普段は無精しているが今朝は榊を新しくし、お神酒と洗米と塩、水を供えて暫し手を合わせた。

明治27年生まれの義母は明治天皇を敬愛していて末期癌で入院した時に病名は伏せていたのに
「今度は駄目だと思うから明治天皇と同じ7月30日に死なせて欲しい」
と洩らした。
それから1ヶ月苦しい日が続いて義母には気の毒だったが、私は一日でも長生きして欲しかった。
その間に後に残る者が悔いを残さないようにさりげない感謝の言葉を告げ、最後の日には夫と私だけに居て欲しいと。

あの日 母は別れの言葉を言ったあとは両手を胸の上で祈るように組んで眼を閉じて、それから何れくらい時間が過ぎただろう。
静かに息をひきとった。
武士の妻の様な見事な最後だった。
夫は表情を変えず耐えていたけれど私はもう駄目、人目につかない所に踞って泣きじゃくった。
昭和40年の今日だ。

添付した日本画は義母の弟さんが描いた大きな絵の一部で義母の40歳前後のころだろうか。

久しぶりの公園にて2011/09/04

公園の広場
台風の影響も殆ど収まってきたのでカメラをぶら下げて少し遠くの公園まで出かけた。
退院以来始めてだと思う。 ということは2月以来かも。
少し秋めいた写真が撮れるかなと期待していたのだが思ったより淋しい感じだった。
日曜日なのに広場に親子連れの遊ぶ賑やかさは無くしーんとしている。

果樹園の一隅に咲いている筈のコスモスも全然見られない。
「秋桜って書くけど8月頃から咲いていたと思ったけれど」
と独り言を呟く。 どうも長期、世間から隔離されていた後遺症で何かにつけて自信が無くなっている。
その代わりに韮の白い花があちこちに咲いていた。
果樹園は心なしか雑草が生い茂って少し荒れた感じがした。
業者が入っていない場所だからボランティアの方々の炎天下の作業は今年は無理だったのかなと色んな影響まで少し考えてしまう。

大木の茂った場所で作業着を着た年配の人が幹を撫でてると思ったらいっぱい止まったアブラゼミを取って袋に詰めているのだった。
その後で棒で枝を叩くと蝉がいっせいに飛び立つ。
蝉も樹の為には害虫なのだろうか。
聞いてみたかったが声を掛けそびれた。

病気する前は気軽に毎日のように散歩していた場所なのに今日は半分くらいで疲れてしまった。
少しづつ前進しよう。

学問への憧れ2011/09/05

韮の花
昭和20年、敗戦の年の二学期は何日から始まったのか、もう定かな記憶は無い。
1年生の時は7ヶ月程授業を受けただけで軍需工場で働いたから授業の再開には複雑な思いはあったもののともかく嬉しかった。
油染みた作業服ともお別れ、スカートに白いブラウス、紺の制服を着てノートと筆記用具を抱えて久しぶりに教室に入った時は何とも言えない懐かしさがこみ上げて来た。

戦災を免れた都市だったので古い校舎もそのままだった。
皆の姿には現代の女子学生の様な華やかさとは無縁の化粧気のない貧しさが見えていたけれど教室で勉強出来ることの幸せを噛み締めている表情だった。

私など小学校以来勉強は嫌いで要領だけで泳いで来た。
受験も幸運に恵まれただけだ。
まして女学校の4年終了で受験したから1年分欠損している。
尤も女学校のほうは残っていても学徒動員で授業は受けられなかったのだが。

終戦後、学校に復帰出来た時だけは
「この幸せを感謝してこれからは勉強に打ち込もう」
と高揚した気持ちを日記に書いた覚えが有る。
昼夜3交代、休みは2週間に1日だけ、空襲に怯えて作業着のまま寝る日々の中で活字に飢えていた日々を思い出す。
勉強への憧憬が膨らんでいた。
私にとっては貴重な体験だった。

この殊勝な気持ちも終戦後しばらくしての新しい欧米文化の氾濫に学校以外のことにのめりこんでしまうのだった。
でも勉強に対する憧れだけはこの歳になっても続いている。

スクーターの想い出2011/09/08

青い蜜柑
日本のあちこちに深い傷跡を残した台風もやっと去って秋の爽やかな風が涼しい。
久しぶりの青空を見上げながら、何もかも忘れてスクーターで走りたいなと思った。
こんな時、歳を取ったことをヒシヒシと痛感する。
七半まで乗れた免許を更新しなかった時から20年余り経ってしまった。

乗り物好きだった夫が中古のラビットを買って来たのは昭和30年代後半だったと思う。
その何年か前に初めてのボーナスで手に入れ1年も持たなかったポンコツのオートバイとは乗り心地が全然違う。
翌年には夫の念願の車、ダットサンの中古車が来てからはスクーターは私専用になった。
買い物も小学校の授業参観もこれで毎日ほんとうによく乗ったものだ。
自動車は免許は取ったものの最後まで好きになれず夫に頼りっきりで済まなかったと思っているが独りで風を肌に感じながら走る爽快さが堪らなかった。
何代買い替えただろう。 オートバイでなくスクーターだった。

夫の定年後海辺の家に移ってからも暫くは乗っていたが、家に居ることが多くなった夫の車に便乗するようになって何となく止めてしまった。
う〜ん 次は電動式の車椅子かな。
その時はスクーター型の格好いいのを買いたいな。