年頭の願い2011/01/07

古いスケッチ帳から
あっという間に大晦日もお正月3が日も過ぎ去り今日は七草がゆを戴く日なのだけど、この風習は昭和の私の子ども時代にもう我が家では廃れていた。
無論伝承もしてなく我が家の正月はとっくに終った感じだ。

2011年が始動し始めた緊張感と期待と不安が入り交じっている。
ま 私は通常の健康を取り戻せたらの願いだけだけど。
受験や就職活動されてる若いかたがたには厳しそうと想像する。

私たちの世代は多くの青年が戦死し、内地では市民が爆撃で亡くなり窮乏の生活を誰もが経験したから今は楽天地と思い勝ちだが本当にそうだろうかと思う時が有る。
戦争中にも楽しい想い出がある。 物質的に豊かに見える今も苦しみはあるのだろう。

2011年に希望の光が世界中に射し込んで欲しい!
幸せの温かさを皆が感じられますように と何も出来ない私は心のなかで願うだけだ。

治ってきた感じ2011/01/08

暗雲は残っているけれど
退院して10日ぶりの診察を受けに病院に行った。
相変わらず待合室はいっぱで予約の時刻から1時間半ほどして呼ばれた。
担当医の先生の笑顔が懐かしかったな。
「もう普通に生活して大丈夫ですよ」
「横浜くらいまで行っても?」
「ええ いいでしょう。 食事さへ気をつければ」
中々回復しない体力に苛々していた不安がいっぺんに吹っ飛んだ。

会計待ちの間に病室に上がって元居た部屋の名札を見たら病友の名前がない。
確か年末年始だけの外泊と伺っていたのだが。
ナースステーションに行って「退院されました」と聞いてホッとした。
奥からお世話になった看護師さんが満面の笑顔で
「お元気になって良かったあ」 と。
入院の日々が思い出されて感無量だった。

帰宅すれば流石に疲れたけれど、灰色の雲間から太陽が姿を現した感じ、明日への意欲が湧いてきた。
家人に言わせると「悪い病気じゃないんだから良くなって当たり前」だそうだ。
そう言われると ああ 幸運だったな と思う。
周囲で治らない病気の方を何人も見たり介護してきたから。

病友にも電話して お互いの退院を祝い、
「体力回復に一緒に頑張ろうね。 元気になったら遊びに行くね」
と 同い歳は嬉しい。

一応帰宅2011/01/09

昔作った大きな粘土人形
昨日診察して戴いた先生の言葉に励まされて自宅に帰ってみることにした。 荷物を纏めてみたら結構沢山で驚く。
昼食のお弁当を作ってもらい車で送って貰って36日目の我が家に帰った。
お天気が良いからまずベッドの寝具をベランダに干して貰って、家中目一杯暖房を効かしてから荷物をざっと片付ける。
落ち着いたのを見届けて長男夫婦が帰ったすぐ後に次男夫婦が野菜や白身の魚、鶏のささみなどをいっぱい買い込んで来てくれた。
連携プレーの見事さに何時もながら感心する。

気になっていたエアコンのフィルターの掃除まで頼んでしまった。
何時もなら脚立に登って自分でやるのだけど流石に自重する。
甘え癖がついてしまいそう。
食材を解り易く仕分けして保存、ついでにお昼のお浸しも作ってくれた。
家族の有り難さをつくづく感じる。

さあ 独りになってちゃんと続くかな。 ちょっと不安だけどまあ 大丈夫だろう。
我が家に帰ればやりたいことがイッパイだが暫くは自重しよう。
年賀状などの不義理にも目をつむって申し訳ないけどもう少し待って戴こう。

掏摸に遭った想い出2011/01/10

無題
1度だけ掏摸の被害に遭ったことがある。
敗戦から暫く経って街には闇市や道端の怪しげな露店でいろんな品が売られていたが凄く高かった。
学生の身で買えなかったけれど、休日は何となく繁華街をぶらついて映画館の看板を見上げたり本屋さんで立ち読みしたりして戦後の自由を楽しんでいたものだ。

そんな或る日のこと、後ろから人がぶつかってきてアレッと思ったら擦り抜けるように小走りで人混みの中に紛れようとしている後ろ姿が見えた。
反射的に手提げの中を確かめると財布がない。
顔は見えなかったが40歳前後の着物姿の奥さん風の人が両腕で抱えるようにして必死な感じだった。
その後ろ姿を見ると何だかとても哀しかった。
品の良い奥さんが追いつめられている感じが伝わって来たのだ。
絶対素人だと思う。 大声を上げる気にならなかった。

財布の中味はほんと小銭しか入っていなかったからガッラリしただろうと同情の念が湧いたくらいだった。
あの頃の学生が大金持ってるわけないのにね。

ただ財布だけは惜しかったな。
姉が北海道の人と結婚して、むこうのお宅に挨拶に言った時のお土産でアイヌ模様の刺繍が素敵なお気に入りの財布だったのに。

闇成金は横行していたが、まっとうに暮らしている小市民にはキビシイ時代だった。

ヤミ市2011/01/11

油彩(10号)
敗戦後の何年かの都市での生活はヤミ市を抜きにしては語れない。戦災に遭わなかった京都の中心部でもちょっとした空き地にヤミ市が出来て一種独特の賑わいを見せていた。
雑炊の丼一杯が幾らだったろう? 寮の食事でガマンできない時は並んだ。 怪しげなものだったな。
進駐軍が来る前に焼け残った軍需工場が放出した物資や農村地帯から統制の目をくぐって運んで来た食糧などあらゆる品が高値で売られていた。帰還して来た一部の若者は白いマフラーを靡かせて闊歩し、道端では白衣の傷痍軍人が歌って通行人から小銭を投げてもらっている。 無法地帯だったが危険な感じも無く我々も友達と連れ立って運動靴などを買いに行きいっぱしに値切ったりしたものだ。

卒業してから父が亡くなり、山奥の父の生家を兄と訪れた時に乗り継ぎで時間待ちの間に訪れた姫路城の前のヤミ市は大きかった。
国鉄の駅から城前の広場まで続いていた記憶がある。

やがて占領軍と政府とで統制され徐々に廃れて行った筈だが、私の結婚した昭和25年にはまだ少しだが残っていた。
新婚生活は本当に苦しくて、私の遣繰りも下手だったのだろうが給料日の前何日かのために結婚支度に自分で仕立てた衣服をヤミ市に売りに行った覚えが有る。その頃流行していたチェックの赤いプリーツスカートでまだ一度も穿いてなかった。
闇屋の小父さんがいい人で結構高値で買ってくれたっけ。
無論家族には内緒だった。

あの頃お金がないのは皆一緒だったから悲壮感なんて無く楽しい想い出のほうが多い。