昭和初期の師走2009/12/28

今年も冬至にはこれを食べました。
昭和十二〜三年頃までは中国で戦争はしていても内地は穏やかで町中に師走の気分が漲っていた。
大きな家では門扉の両側に大きな門松を飾る。 法被を着た植木職人さん達が大きな松に太い竹を斜めの切り口を上にして3本添え、梅などをあしらっていたかな。その辺は記憶が薄いがともかく大人の背丈くらいの立派な門松だった。 大八車に材料を載せ町のあちこちを威勢良く走る。 師走の風物詩だった。
我が家は、松の枝の中程をを半紙でくるみ、紅白の水引を結んだのを門柱に釘で打ち付けていた。 子ども心にもちょっと貧弱だなと思っていた。

杵と臼を載せた大八車も青い木綿の腹掛けをした人たちが引っ張って家々を廻る。 無論餅つきだ。
国道以外は舗装してないし自動車もバイクも走らないから白い砂利道の真ん中を行き交いしていた。

うちではお餅は父の田舎の本家から送って貰うので家でお餅つきはしなかった。(帰省した時には季節に関係なく餅を搗いてくれたっけ)
暮れになると鉄道便で送られて来るのは菰袋に入った大量の丸餅、庭の柿の木になった百匁柿、自家製の干し柿、味噌付けの大根のお漬け物などだった。
子どもだった私が好きだったのは柿だけ。 百匁柿は名の通り大きくて渋柿だから中身がゼリー状になるまで並べて置いておく。透き通るような感じになるとスプーンですくって食べる。 本当に美味しいんだから!

暮れも押し詰まると父も休みになり、唯一手伝うのは火鉢の灰作りだった。  一年たった灰はネズミ色の粉になっている。 俵や藁束を庭で燃やして新しい灰を作り入れ替えるのだ。 新しい灰は黒々としてまだ藁の形が残っていたりして、新年を迎える気分になった。 藁を燃やしている間、私は一緒にあたりながら父の話しを聞くのが嬉しかった。

師走は忙しいけれど楽しいことがいっぱいあった。 冬休みには宿題もなかったし。