シルバー席と携帯2009/10/01


電車に乗れば必ずシルバー席を目指すのは迷惑を掛けたくない気持ちもあるが、それよりあの場所は落ち着くから好きなのだ。
ラッシュの時間帯には若い方たちが座っているがそんな時間に乗って文句をいうつもりはない。 お疲れさま、大変ですね という気持ちだ。

気になるのは携帯だ。 座っている人、前に立っている人の半数以上は携帯電話を開けて見ている。
「シルバー席では携帯の電源をお切りください」としつこいくらいアナウンスが流れるが誰も気にしない。 私もバッグにいれたままだが電源を切ることは稀だ。
ペースメーかを埋め込んでる方への配慮だと聞いているが、現在の携帯は進歩して殆ど影響がないとも聞く。
ペースメーカーを使用している方は杖等と異なり外見ではまったく判らない。 マークを付けてくださいとも簡単には言えない。

現在の携帯電話の電波がそいういことに本当に有害なのか無害なのか、はっきり発表して欲しいものだ。 病院内での機器への影響もはっきり聞きたい。 ルールは守るべきだと憤慨する声も聞くが、無害だからと信じて使っている人も多いようだ。
車内のアナウンスが流れる度に、ここまで無視されているマナーも珍しいと思う。

變なマナー2009/10/01


無視されてる携帯マナーと対照的に定着しているマナーがある。
駅のエスカレーターの左側に乗り、右側は急ぐ人のために開けている。
私なんかは階段を登るのが辛いから絶対にエスカレータを利用するがラッシュ時には横向きに平たくなって皆が追い越し易いように気を遣う。

しかし通勤時間帯以外は左側に乗って動かない人のほうが多くて空いてる右側を元気のいい若い男性が駆け上って行くのだ。
そんな元気が有るなら隣の広い階段を登ればいいじゃないの。
電車から降りて来た客は左側の一列に乗るためエスカレータの手前に延々と並んで待っている。 右側を開けなければ待ち時間は半分で済むのに!
階段が横に無い時は別としても、杓子定規な変なマナーと知人に話すと同意する人が多いが習慣に従ってるほうが無難だと言う。
それが大人の常識なのだろう。

背日のクラス会で関西から来た連中がエスカレータを利用しながら
「東京は左側なんやね」  関西は昔から右側に並ぶ。
「京都はメチャクチャよ」
案外京都人は合理的なのかも知れないなと思った。

新聞購読をやめて2009/10/03


思うところ有って思い切って新聞をやめて4ヶ月になる。
物心ついて以来生活に溶け込んでいた新聞をやめたいと思うようになるなんて考えられなかった。

理由は色々ある。 ニュースや情報はTVやパソコンで見られることと連載小説や漫画に興味がなくなり、一部のコラムとパズル以外はTV番組が必要なだけ状態。 更に必要ない折り込み広告の山、狭い我が家では置き場所と月に一度カートに乗せて下まで運んで処分するのに苦労する。 そう 朝夕1階のメールボックスまで取りに行くのも億劫だ。 年間5万円弱の支出がそれに見合っているかという気になる。

ま こんな風になったのも老化現象だと思わないでも無い。
政界に新しい風が吹いて話題が多くなって、やっぱり新聞を取ろうかなとちょっと心が揺れている。

昭和初期の運動会2009/10/04

女子は紅白表裏の鉢巻き、男子は帽子だった。

私が小学生だった昭和10年前後の秋の運動会は町の一大イベントだったから、今の時期は毎日運動会のための練習に明け暮れた。
種目はダンス、100メートル競走、綱引き、大珠転がし、リレー、男子は組み体操や騎馬戦が加わる。それに総行進などなど。

当日になると朝早くからドーンドーンと打ち上げる音が町中に響いた。
この日だけは体操着のままお弁当だけ持って登校する。 運動会の時だけ履く白い薄い木綿の地下足袋が軽い。
人口2万人の小さな町の真ん中に小学校が位置して生徒数が2千人だった。 今では考えられない子沢山(4~5人が普通で8人も)の家庭が多かった。

時計台の上から張られたロープに万国旗がはためき紅白に飾られた入場門なども華やいでワクワクしたものだ。正面にはテントが幾つか並び校長先生はじめ来賓の方の席になる。周囲はござが敷かれて全校生徒が紅白に分かれて対峙した。 そのほかの席に家族や町中の人が集まった。

種目は今とあまり変わらないと思うが、紅白対抗なので騎馬戦などには大きな声援を送った。
「赤 ガンバレ」 「白負けるな」がエスカレートして
「赤 アカン」  「白シンダモーン」 などと声を揃えて大声で囃すがこの日ばかりは天下御免だった。
午前中の締めくくりは全校生徒の総行進で勇ましい第二校歌に合わせ大きく手を振って400メートルのトラックを何周も回った。 

昼食は貧富の差が大きかった当時の配慮だったのか生徒は教室でお弁当を食べた。 運動会と遠足のお弁当は関西風の具の多い太巻き寿司に決まっていて母親は早起きして作ってくれた。

運動会の最後は各組から選抜された選手の対抗リレーだ。皆が燃えた!
終わりに紅白の勝敗が発表され、各競技の勝者に賞状と副賞が校長先生から授与された。

私はいつも中くらいで何も貰えなかったが、教室では成績の良くない子がヒーローになったりして ほんとうに楽しかった!

戦争に巻き込まれて行く前のまだ平穏だった時期の懐かしい思い出だ。

還らぬ日々2009/10/06

54年間連れ添った夫が逝ってやがて5年になる。
定年後は静かな所に住みたいという彼の希望で海辺の町に移った。坂を少し登ったところで縁側からは海が180度広がりその向こうに富士山が四季折々、日々刻々に異なる姿を見せてくれる。
築80年の日本家屋は物珍しくて少し手を入れただけでそのまま住んだが個室にしきられない広い空間は解放感があって二人暮らしには快適だった。
朝は浜辺へ、夕方は裏山を鶯や時鳥の鳴き声を間じかに聞きながら二人で散歩した。

自然に恵まれた地は虫や動物も多いということ。 ゴキブリは勿論、ヤモリや大きな蜘蛛が姿を見せ、庭にはシマヘビや時にはマムシが出て来て蛇嫌いの私は大声で夫を呼ぶ。彼は都会育ちなのに駆けつけてやっつけてくれた。 マムシは生け捕りにしてガラス瓶に入れて観察した後、土地の方にさしあげるとマムシ酒にするからと喜ばれた。
野良猫がよく遊びに来るようになり、タヌキも日向ボッコをしにくる、アライグマまで。 アライグマは猛獣だからガラス越しに眺めた。 台湾リスがくるようになって庭のビワの実や夏ミカンはすっかり食べられてしまったが、でも可愛かった。
カラスが近くの木の上に巣を作りヒナになると親の帰りを待ちかねて泣きわめく、「うるさい! カアカア!」と叱ると一時黙るがすぐに前にもまして泣きわめく。
誰にも聞かれる心配がないからカラスとはカラス語で掛け合って楽しんだら或る日カラスのほうが日本語を喋った!
「オカエリー」 九官鳥の親戚みたいなものだからと思うが誰も本気にしてくれなかった。

蝶や蝉の孵化は何時見てもわくわくした。いろんな昆虫がいたし、地中から顔を出したモグラとも目が合った。

夫と二人で暮らした18年間はこよなく大事な想い出。時々そっと出して眺める。
添付したのはその頃描いた小さな油絵です。